但馬文教府考

〜三百里揆文教〜
阪本 勝 元兵庫県知事○○
(第36・37代 1954年〜1962年在任)
 中国の古典「書経」(尚書ともいう)巻三、夏書の禹貢編に三百里揆文教とある。「三百里文教を揆(はか)る」と読む。「文教」の典拠はここにある。
 「府」は元来「文書の蔵」(説文)を意味するが、転じて、この文書を司どる百官の居る処なりとある。すなわち、政治、文化、教育等行政を司どる役人の基地の意味である。
 
 この二つを合したのが「文教府」である。この言葉は私の創作にかかる。

 三百里とは、王城を去る三百里圏内の地域のことである。中国の一里はわが国一町にあたるから、三百里とは日本の五十里、すなわち二百キロである。この域内の行政の眼目は文教の振興にあるとされている。
 このサークルの外の二百里すなわち百数十キロ圏は「武衛を奮わす」地、すなわち軍事的防備の地とされている。

 
 これは中国での行政的感覚であり、狭い日本での行政的実感でない。神戸と豊岡とはわずか約七十キロの隔たりであるから、中国風に考えれば王城の外郊にすぎない。しかし、兵庫県としての実感では、「三百里」以内としてもかなり遠域である。故にこの地域の行政の基本は、とくに文教に置かなければならない。
 そうしなければ文化の果てる地、武衛を奮わす地となりかねない。すなわち中国風にいえば、故地との国境になるおそれがある。それならばこそ、この地域にはとくに文教政策が重要なのである。


 但馬は県政の本拠、神戸を離れて遠く、純朴敦厚の伝統的美風の残っている地域である。この地域にこそ王政(知事の善政)を浸透せしめ、文化、教育の振興を図らなければならない。そのために一種の基地を造るのが望ましい。

 それが但馬文教府である
 
  老いぬれば
  
  幾山河の

  しのばれて

  但馬いとしく

  なりまさるかな


         阪本 勝
  ※昭和57年但馬1市18町長が発起人となり、
    但馬文教府敷地内に建立されました。